ホーム›狂俳日々徒然› 歴史, 狂俳とは › 狂俳の歴史(H28岐阜市教育委員会作成)
狂俳は、和歌、連歌、俳諧と続く日本固有の短詩文芸から派生したひとつで、「題」+「十二音(五+七あるいは七+五)」で構成される最短詩形で、当初は「冠句」等と呼ばれた。江戸中期の俳諧人、志摩国生まれの三浦樗良(ちょら)に始まるといわれ、当初は「冠句」と呼ばれた。樗良は、安永2年(1773)に岐阜に滞在したという伝承があり、美江寺の俳諧人、初代細味庵蘇坡に冠句の指導をしたという。その後、初代は二世細味庵、弟子八仙斎一世ともに俳諧の形態に準じ作法、様式を整え、これを岐阜調として狂俳の普及に努めその名称も浸透した。狂俳の活動は、細味庵と八仙斎の二宗家によって道統が守られている。狂俳は、東海地方を中心に展開され、江戸後期、明治後期~大正期、第二次世界大戦後に特に隆盛した。東海樗流会は岐阜県を中心に最盛期には2,000名の会員を数え、現在は、約50結社、約400名でその伝統を守り続けている。
岐阜県下の結社を組織した「樗流(ちょりゅう)会」が昭和25(1950)年に発足し、同33(1958)年に「東海樗流会」と改称し、季刊誌「樗流」誌を発刊した。 同47(1972)年に岐阜公園内に石碑「狂俳発祥の地」を建立。石碑の揮毫は、当時の上松陽介市長(東海樗流会顧問)である。
伊勢山田の人
昭和四十七年十一月十六日 東海樗流会建之
三浦樗良は、蕉風漸く衰えんとするを憂い
冠句と言う十二字調を創案し
安永二年岐阜の地に滞在
厚見郡今泉村在
初代細味庵東坡に教伝されたるに始まる
東坡は之を深く研究し
俳諧に準じて形態を改め前句と呼称し
更に天保年代に現在の狂俳と改称するに至る
爾来細味庵並に八仙斎の二宗家により
県下はもとより広く東海各地に伝へ今日の隆昌を見るに至る
憶うに狂俳は世界の最短詩にして極めて文質彬々たる格調高い文芸と云うべく
今回同好会の会員相計り
由緒ある此の地に永く後世にその由来を伝えんとする所以なり
東海樗流会が岐阜公園を「狂俳発祥の地」とされるのは、狂俳の宗匠であった初代八仙斎亀遊が現在の岐阜公園一画に草庵居住を構えていたとされていることによる。なお「発祥の地」石碑に隣接し、八仙斎亀遊の石碑、東海樗流会三十周年記念石碑がある。
(H.28 岐阜市教育委員会作成)
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