岐阜調狂俳と俳句の研究

東海ちょりゅう

狂俳

“KYOHAI”

令和5年 狂俳発祥250年

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和歌「敷島の道」連歌「筑波の道」狂俳「稲葉の道」

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狂俳文芸「座の文化」の継承と革新~文学史からみる「岐阜調狂俳」の位置づけ

2022.05.04 878

和歌…「敷島の道」

万葉集

舒明天皇(天智天武の父629) 天平宝宇759 淳仁天皇 130年間 奈良時代 作成時期:奈良時代

「特徴」
現存する日本最古の歌集(約4500首)
天皇から貧しい農民の歌まで含まれる
山上憶良の「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」など

古今和歌集

延喜5年(905年)4月18日に奏上 作成時期:平安時代

「特徴」
日本最初の勅撰和歌集:天皇や上皇の命令によって編集された和歌集(約1100首)
醍醐天皇(だいごてんのう)の命令で、紀貫之(きのつらゆき)らが編集

新古今和歌集

建仁元年(1201年)の下命 作成時期:鎌倉時代

「特徴」
勅撰和歌集(約2000首)
後鳥羽上皇の命令で、藤原定家らが編集


物合【ものあわせ】は平安時代に隆盛を極めた遊戯。
参加者を左右二組に分けて課題の品物などを持ち寄らせ、審判を立てて何回戦かを競い、左右チーム総合の勝敗を決めるもの。
代表的なものには、歌合・絵合・貝合などがあり、その他にも鳥合(闘鶏)・花合(花いくさ)・小鳥合(こちらは小鳥の品評会)・虫合・前栽合・扇合・琵琶合など。季節の行事として、菖蒲の根合・菊合・紅梅合などもある。
審判(判者)の選定はもっとも神経を使うもので、審美眼はもちろん判定書に必要な書道や文章・和歌の道に優れた老練の人が選ばれる。他に、数回戦を競うため各チーム勝ち負けの数を串で記録する記録係「数刺し」がいた。また、両チームにはチーム代表で解説や進行を担当する「頭」や、応援担当の「念人」が選出されることもある。

歌合【うたあわせ】
短歌を左右1首ずつ組み合わせ、優劣を争う文学的行事。
まれには3首を合わせたこともあり、歌人単位に複数の短歌を並記して比較することもあった。北家藤原氏の摂関政治を抑えるために和歌をはじめ朝儀,国風を作興した光孝天皇の仁和年間(885-889)に初めて現存最古の《民部卿行平家歌合》(《在民部卿家歌合》)が出現したことと、歌合の行事形式が相撲節会(すまいのせちえ)に酷似していることとからして、いわば歌相撲といった興味から始められたものとさえ考えられる。

連歌「座の文化・文学《真態》」…「筑波の道」

短連歌 → 鎖連歌 → 連歌

源俊頼『俊頼髄脳』1115年

連歌といへるものあり
例の歌の半らを言ふなり
本来心に任すべし
その半らが内に
言ふべきことの心を言ひ果つるなり
心残りて付くる人に
言ひ果てさするは悪しとす

機知性
何々と掛けて何々と解く謎掛けに類似
謎のような前句を付句においてうまく解決する、同じような掛詞で応答する

脚の上膝より下の冴ゆるかな

道長

越のわたりに雪や降るらむ

実方(実方集)

成立時期(美濃・岐阜との深い因縁がある①~⑤)
『古今著聞集』の「いろは連歌」は47句連ねたもの。

たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む

在原行平(古今集・離別)…掛詞
往なば・因幡
松・待つ
(弘仁9年・818~寛平5年・893)

①定家の『明月記』建保2年1214、百十余句、美濃介(副国司)領地 糸貫、美江寺に領地を寄進

新古今和歌集
忘れなん松となつけそ中々にいなはの山の峯のまつ風

藤原定家

建保4年(1216)拾遺愚草 上
きのふかも秋の田の面に露置し稲葉の山も松のしら雪

藤原定家

九条兼実の日記『玉葉』治承2年1178、50本の扇を賭物として連歌会を催したとある。
百韻連歌が基本。『明月記』正治2年1200、百韻連歌が初めて見える、新古今和歌集成立前後。後鳥羽院を含めた「新古今和歌集」歌人たちが長連歌を完成させた。

②二条良基『筑波問答』1372頃、二条良基 連歌論書『僻連抄』1345年 関白太政大臣を3度も
揖斐郡小島頓宮に後光厳天皇、随行し 『小島のすさみ』を著す。南北朝内乱の時代

おもひきや思もよらぬ假寐して稲葉の月を庭に見んとは

③室町中期の『連珠合璧集』前関白太政大臣 一条兼良著 『藤川の記』…応仁の乱の時代、文明5年1473年
芥見に来て長良川と金華山を詠んだ

みねにおふる松とはしるやいなは山こかね花さく御代のさかへを

④連歌は、二条良基(1322~1388)、一条兼良(1402~1481)、心敬(1406~75)、宗祇(1421~1501)と完成。
宗祇は「古今伝授」を大和町脇坂城主 東常縁(二条派持明院統北朝、正徹(徹書記・東福寺)、堯孝(二条派大覚寺統・南朝)の両統弟子)から継承
歌学・源氏物語等々の解釈を秘伝。 日本文化・武道の免許皆伝制度の発祥

宗祇 → 三條西実隆・御所伝授、細川幽斎 → 八条宮智仁親王・烏丸光弘 → 後水尾天皇
→ 牡丹花肖柏・堺伝授
→ 林宗二・奈良伝授

⑤は芭蕉・支考・惟念(後ほどに説明)

3. 俳諧(俳諧の連歌)「座の文化・文学《行態》」

《「俳句」・「連句」は明治30年前後に正岡子規らによる現代アート・ホトトギス・托卵文芸で、似て非なる物》
『古今和歌集』に「俳諧歌」として初出。

梅の花見にこそ来つれうぐひすのひとくひとくと厭ひしもをる

梅の花を見に来たが、鶯の中には人が来ると人来る人来ると嫌がっているものもいる

①俳諧の連歌
連歌の完成…宗祇の『新撰筑波集』明応4年1495年
一般に俳諧の誕生…山崎宗鑑『犬筑波集』天文元年1532年頃
山崎宗鑑『犬筑波集』

かすみのころもすそはぬれけり

佐保姫のはるたちながら尿(しと)をして

宗鑑と並んで俳諧の始祖とみられるのが、荒木守武(1473~1549)伊勢神宮内宮神官
『守武千句(別名飛梅千句)』天文9年1540年

②貞門俳諧
江戸時代の俳諧の歴史 松永貞徳の貞門、西山宗因の談林、松尾芭蕉の蕉風
1571~1653 1605~82 1644寛永21年~
寛永6年(1629)京都妙満寺で初めての俳諧の会…貞徳 連歌師の子、
「師の数50余人」…和歌・連歌・古典を当代一流の人々から学んだ第一級の文化人
床の間には天神(菅原道真)と柿本人麻呂像を掲げ、文台を使用、その場限りの「言い捨て」として行われてきた俳諧が、文学の一つのジャンルと認定される。
『新増犬筑波集』1643年寛永20年 『犬筑波集』の同じ前句に対して

かすみのころもすそはぬれけり

天人やあまくだるらし春の海

貞門俳諧の特徴道徳的・教訓的傾向がある。
芭蕉は、初め貞門の北村季吟に、主君藤堂新七郎家の跡継ぎ良忠(蝉吟)に仕え、共に学んだ。
貞翁十三回忌追善俳諧 寛文5年1665年 百韻の表八句 芭蕉俳諧最古の作 22歳

③談林俳諧…「檀林」とも書き、もとは僧が修行・学問をする寺の事で、「俳諧談林」と呼んだ。
延宝3年1675年 談林俳諧の指導者となる西山宗因が江戸へ下ってきた時の百韻の発句に

されば爰に談林の木あり梅の花

西山宗因…もともと連歌師であったが、余技の俳諧で井原西鶴を中心とする大阪でその先頭に立った。
貞門の「物付」に対して「心付」(句意付)、前句全体の意味から連想させて付けるもの。
貞門からは、「阿蘭陀流」とも言われ、伝統的な古典世界を持つ京文化を背景の貞門と、新興町人階級による大阪文化「談林」のぶつかり合い。
宗因歓迎の百韻に芭蕉も桃青の号で出席

④芭蕉の俳諧の誕生…芭蕉独自の俳諧の転機 天和2年1682年『花にうき世』の歌仙、芭蕉30歳時、
三十六句の歌仙方式に統一。百韻では一日がかり、三十六句で庶民が俳諧を楽しめるようにした。
歌仙は、表六句、裏と名残の表が十二句づつ、名残の裏が六句からなる。
貞門の「物付」や談林の「心付」のように、言葉や意味から具体的に連想を働かせるのと違って、芭蕉は前句の気分屋雰囲気から連想を働かせて付ける「余情付」が考案された。

⑤各務支考・しこう(1665―1731)……江戸中期の俳人。各務(かがみ)氏。別号東華坊、野盤子(やばんし)、見竜、獅子庵(ししあん)、変名蓮二(れんじ)坊など。美濃(みの)国(岐阜県)の人。幼時、郷里の禅寺に入ったが、19歳で下山して遊歴、1690年(元禄3)26歳のとき近江(おうみ)で芭蕉(ばしょう)に入門、その博学多才を愛されて晩年の芭蕉に随侍した。師の没後は、地元美濃を本拠に北越や九州方面に至るまで広く行脚(あんぎゃ)を重ねて、蕉風俳諧(はいかい)の伝播(でんぱ)に貢献すること大であったが、1711年(正徳1)には死亡したと偽って自己の「終焉記(しゅうえんき)」を出すなど、世人の反感・誤解を買うことも多かった。支考一派は美濃風とよばれるが、作風は俗談平話を旨として平明卑俗、軽い談理をも含んで、大衆に迎えられるところであった。また俳論家としても、『葛(くず)の松原』『続(ぞく)五論』『二十五箇条』『俳諧十論』など多数の俳論書を著し、蕉風俳論をよく体系づけている。墓所は岐阜市山県(やまがた)の大智寺門前にある。

⑥広瀬惟念・いねん 生年:生年不詳 没年:正徳1.2.9(1711.3.27)
江戸前期の俳人。美濃国(岐阜県)関の生まれ。生家は富裕な商家であったが、若くして財を失って諸国を放浪した。松尾芭蕉に入門したころは温雅な叙景句を作っていたが、元禄7(1694)年の芭蕉没後

きりぎりすさあとらまへたはやとんだ

のような極端な口語調の句を作るようになり、同門の森川許六から俳諧の賊と罵られている。晩年芭蕉の句を和讃に仕立てて風羅念仏と称し、これを唱えながら諸国を乞食同然の姿で行脚した。彼を偶然見かけた娘が、涙を流して袖に取りすがったところ、どこへともなく走り去ったという話が『近世畸人伝』に載っている。<参考文献>鈴木重雅『俳人惟然の研究』

4. 狂俳(狂俳の連歌)「座の文化・文学《草態》」…「金華(稲葉)の道」

狂俳は、和歌、連歌、俳諧と続く日本固有の短詩文芸から派生したひとつで、「題」+「十二音(五+七あるいは七+五)」で構成される最短詩形で、当初は「冠句」等と呼ばれた。
江戸中期の俳諧人、志摩国生まれの三浦樗良(ちょら)に始まるといわれ、当初は「冠句」と呼ばれた。樗良は、安永2年(1772)に岐阜に滞在したという伝承があり、美江寺の俳諧人、初代細味庵蘇坡に冠句の指導をしたという。
その後、初代は二世細味庵、弟子八仙斎一世ともに俳諧の形態に準じ作法、様式を整え、これを岐阜調として狂俳の普及に努めその名称も浸透した。狂俳の活動は、細味庵と八仙斎の二宗家によって道統が守られている。
狂俳は、東海地方を中心に展開され、江戸後期、明治後期~大正期、第二次世界大戦後に特に隆盛した。東海樗流会は岐阜県を中心に最盛期には2,000名の会員を数え、現在は、約50結社、約400名でその伝統を守り続けている。
岐阜県下の結社を組織した「樗流(ちょりゅう)会」が昭和25(1950)年に発足し. 同33(1958)年に「東海樗流会」と改称し、季刊誌「樗流」誌を発刊した。 同47(1972)年に岐阜公園内に石碑「狂俳発祥の地」を建立。石碑の揮毫は、当時の上松陽介市長(東海樗流会顧問)である。

岐阜公園の石碑

伊勢山田の人
三浦樗良は、蕉風漸く衰えんとするを憂い
冠句と言う十二字調を創案し
安永二年岐阜の地に滞在
厚見郡今泉村在
初代細味庵東坡に教伝されたるに始まる
東坡は之を深く研究し
俳諧に準じて形態を改め前句と呼称し
更に天保年代に現在の狂俳と改称するに至る
爾来細味庵並に八仙斎の二宗家により
県下はもとより広く東海各地に伝へ今日の隆昌を見るに至る
憶うに狂俳は世界の最短詩にして極めて文質彬々たる格調高い文芸と云うべく
今回同好会の会員相計り
由緒ある此の地に永く後世にその由来を伝えんとする所以なり

昭和四十七年十一月十六日 東海樗流会建立

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