ホーム›狂俳日々徒然› 岐阜中社, 狂俳雅人伝 › 岐阜調狂俳雅人伝 第三回「再発見!歴代宗家辞世の句碑探訪」
文政六年(一八二三)四月十二日、七五歳で没。
一舟の人並び行く枯野かな
岐阜市美江寺観音
方県郡鷺山村の桑原藤蔵は、後に岐阜の美江寺に出て洗張業を営んだ。樗良に認められて初代細味庵東坡と号し、前句の選者の秘伝十カ条を伝授され、門人も多かった。細字を作るを好み、扇面に千字を題するに至る。細味庵は性質無欲淡泊にして竟に婦を娶らず。故に子孫なし、一代にて絶家した。
戦災前まで美江寺観昌院境内に句碑があった。(令和元年に再発見)
昭和六年(一九三一)十一月一日、六八歳で没。
野晒しの旅の門出や初時雨
岐阜公園三重の塔前
眉秀は、岐阜常磐町で足袋屋(鈴木屋)を営み、細味庵四世松瓶の庶子で、真野秀次郎が本名。子門に俳諧を学び、余技に義太夫を語り、その軽妙洒脱な吟声に定評があった。明治から大正にかけて狂俳は黄金時代を迎えるが、その功は眉秀によるところが大であった。(令和二年に再発見)
昭和十八年(一九四三)三月、五十六歳で没。
雀二三羽何語るやら暖かし
岐阜市今町 川出医院
禾秀は、本名川出善之助、岐阜市今町の人、下駄問屋を経営して、余技に絵筆をとり、大仏正法寺に天井画を残す。子孫が同地区に住み三代の医家となる。平成二十八年三代目の開業を機に医院を建直し、六世の句碑を門前に建立。
明治二六年(一八九三)十月二十一日七十六歳で没。
きれ雲をあきあき風に冬の月
伊奈波法圓寺
亀遊は、岐阜市今町の製紙原料商長屋亀八郎で作句老巧、指導親切のため門人多く、推されて第一世を号した。資性頗る風流を好み、無欲恬淡にして早くより隠者の志あり。夫婦養子を迎え家産を譲り、金華山の麓竹林の中に草庵を結び、俗塵を避け、専ら風流韻事に耽る。常に文学を怠らず、博覧強記なり、某年、伊奈波豊国座に市川團十郎の劇を見て微なる批評を試みた時、團十郎岐阜に批評家ありと大いに改めて、後に岐阜通過の度に亀遊を訪問した。晩年茶禅を味わい、瑞龍寺の敬沖に参じ悟道を得た。爾来 梅長者と名乗り頗る奇行が多かった。常に飲料水を千畳敷の北なる溪水を汲む。雨の日もこれを汲みに行く。人問えば答えて、穢土の水脈を避くと云う。墓は末広町法圓寺内にある。(平成二十九年に再発見)
明治三十六年(一九〇三)十一月没。四十二歳
梅咲いて見せにけり冬のあたたかみ
岐阜市梅林公園龍興庵
梅が香やたておこしたる塚の石
伊奈波極楽寺に永代詞堂 分銅社
一秀は、岐阜市金屋町の味噌溜商山城屋の渡辺浅次郎で、風流才人、任侠をもって人事を調停し、自らを計らず、そのため産を傾け晩年は不遇なり。文臺を継承し二世となる。分銅社車中を統率した。(令和三年に再発見)
『岐阜市通史編近代』『岐陽雅人伝』を参照。
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