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岐阜調狂俳雅人伝 第四回「高橋素堂雅と霞耕社(山県市伊自良)」

岐阜調狂俳雅人伝 第四回「高橋素堂雅と霞耕社(山県市伊自良)」

2022.05.03 89

高橋素堂雅

樗流会生みの親にしてオルガナイザー、そして広報塔としても活躍

昭和二十四年、十一月二十日に、山県郡伊自良村藤倉の高橋房一(霞耕社、無香庵素堂)雅によって、狂俳専門の文芸誌「文芸タイムス」第一号が発行されました。
毎月約五千部発行し、一冊七円。東濃、中濃、岐阜、西濃と県下くまなく、狂俳結社の活動や動向を網羅し、一日十五里自転車で駆け巡り、取材に奔走した模様が、その記事から窺がえます。
そして、この文芸タイムス主幹である高橋房一氏の提唱によって県内の各大人が召集され、大人会が、昭和二十五年五月三日に岐阜市伊奈波の誓願寺において結成され、この会議において、名称を「樗流会」とすること、初代会長を敢江亭歴山大人とする事が決まりました。
その後、昭和二十五年八月六日の第一回役員会に於いて、細味庵後継七世に、山海居喜月大人、八仙斎後継七世に如月亭梅渓大人の襲統を決定し、昭和二十六年四月十五日に、長良御霊神社において襲統文芸大会が執り行われました。

氏の呼びかけにより、岐阜県下の大人方が結集して、「大人会」の結成を実現させ、「樗流会が誕生」することになり、「両宗家の断絶から襲統」へと実現させたのでした。
ここにおいて、樗流会の発展の礎が確立され、まさに「樗流会生みの親にしてオルガナイザー、そして広報塔」というべき活躍でありました。
その後、文芸タイムは四年で幕を閉じ、「友雅喜」そして、現在の「樗流」へと継承し、「樗流会」もその名にふさわしい「東海樗流会」と改称して飛躍的発展を遂げ現在に至っておりますことは周知の事であります。

素堂の人となりと霞耕社誕生とその活動

伊自良村史の表現によると「伊自良に狂俳以外の文芸があったか」といわれるほど、伊自良村の各地区十部落すべてに狂俳を楽しむ会・集いがあったそうである。おそらくこれは伊自良に限ったことでなく、明治・大正・昭和の戦前まで、岐阜県下ではこのような状況であったのであろう。娯楽といえば「狂俳」、文化的な教養といえば「狂俳」、まさしく庶民大衆の文化そのものである。
そして、伊自良の狂俳の祖と言われる人が三笑庵の庵号で有名な高井助右エ門である。酒造業を営む資産家の家であったが、跡を継がず、村の教育に従事し、その傍ら遠縁にあたる第四世細味庵松瓶に狂俳の教えを受けてその研究に没頭した。幕末の一八六四年生まれで明治中頃には、選者として活躍したとある。
その教えを受け、明治・大正・昭和と活躍したのが、高橋房一(無香庵素堂)等である。房一は、伊自良の伝説上の人物、溝講を立てて開田をした通称「お人好しの助サ」と呼ばれた高橋助三郎の血を引く分家であり、助三郎の息子政一(望水)とともに狂俳に勤しんだ。

大正十年に伊自良では、各地区の狂俳の集い・会を統合して霞耕社が誕生している。そして、名刹東光寺の小倉住職からの依頼で薬師如来の献灯会(行灯に狂俳の句を書くふさわしい絵を描いて発表する)が始まり、命日には境内は人の渦を巻くほど賑わいを見せたそうである。

驚くべきことに、東光寺のみならず、伊自良の各地区で、松尾秋葉神社の献灯会、洞田地蔵祭りの献灯会、大森念仏池の献灯会、藤倉秋葉祭りの献灯会、平井不動堂の献灯会、甘南美寺の献灯会として、地元の祭りにおいて、行灯に狂俳の句を書くふさわしい絵を描いて発表する献灯会が実施されていた。

この伊自良での狂俳の集いの統合とその後の発展の成功体験が、後の大人会の呼びかけや県下の狂俳社を統合した樗流会設立へと繋がったのかもしれない。 しかし、残念ながら、現在も続く献灯会は、藤倉秋葉祭りのみである。しかも霞耕社の主幹を務めた上野美丘雅の子息、欣也さん(元山県市議会議長)が、霞耕社解散後も地元で保存会を立ち上げて、伊自良中学や伊自良南小学校に指導に赴き、献灯会の伝統を守っていただいている。


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