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岐阜調狂俳雅人伝 第五回「無為庵樗良」

岐阜調狂俳雅人伝 第五回「無為庵樗良」(享保十四年1729~安永九年1780)

2022.05.03 631

無為庵樗良

三浦元克。字冬卿。通称勘兵衛。明和五年(一七六八)江戸で法体となり玄仲と称す。別号二股庵、一呆蘆、無為庵。享保十四年(一七二九)生まれ、安永九年(一七八〇)十一月十六日没。五十二歳。

志摩国鳥羽の産。父が鳥羽藩を致仕したので寛保二年(一七四二)ころ伊勢山田岡本町に移住し、俳諧を貞門派の流れを汲む紀州長島の百雄に学んだ。地方俳壇の二大勢力、美濃派(各務紙支考の獅子門)と伊勢派(中川乙由の麦林舎・神風館)の伊勢派との接触は二十歳前後かと思われる。

宝暦三年(一七五三)作の「名月や油とらるるひきがへる」があり、父の浪人生活により、雑排(伊勢笠付)の点者として活躍したり、花生を作ったり、後のユニークな俳画に発展した絵も早くから生活のため描いていた。

宝暦九年ころ南紀木本に滞在し処女撰集『白頭鴉』を。翌年には『ふたまた川』を刊行する。このころ涼菟・乙由・麦林の伊勢風を抜けて独自の新風を起こした。

三十四歳の時、伊勢山田市中に無為庵を結び、「我が庵榎ばかりの落ち葉かな」の句を得て、『我庵』を刊行、独自の風調を確立して俳名を揚げた。坡仄ら有力な門下を擁して蕉風の俳諧中興期の蕉風復古を成す一人として活躍した。

一方で、その生涯は転居と放浪を繰り返し、四十歳の頃には妻かよを伴い江戸に下る。窮迫の放浪生活を送っていたその間に剃髪し、法号は玄仲と称した。後世に放蕩不羈、女色に溺れると言われるが真実はいかに。

麦林風の知巧よりも涼菟の平明調を和歌的抒情のうちに新生せしめた作風と言われている。「芭蕉の翁の風流を慕い、今様の艶に巧みなせる雅を求めず・・・ただ実を写し情を感じ」(坡仄序)とあり、伊勢風の知巧を反省して淡泊・温雅な余情を尊んだ。

さくら散る日さへゆふべとなりにけり

水音の袂にこたふ涼みかな

その後、宝暦、明和と越後高田のけん波、越中井波の陸史、加賀の闌更門下、小松の夜冬らの有力な北越・北陸に地盤を築き、初期蕉風による蕉風復古運動に樗良が指導的役割を果たした。

安永に入り、活動は絶頂期を迎え、尾張、播磨、京都にもその活動の場を広げ、第一次資料には出てこないが、安永二年(一七七三)、岐阜にも来て冠句を初代細味庵東坡に伝えたといわれている。

芭蕉晩年の門人であった支考は、郷里美濃を本拠とし、北は三越(越前・越中・越後)地方から南は九州方面まで、広範囲にわたって自派の勢力を拡張し、乙由の伊勢派とともに地方俳壇を支配した。支考没後も、その道統は、廬元坊里紅、五竹坊琴左に受け継がれ、その後安永九年年(一七八〇)に再和派、以哉派の両派に分裂したが、両派とも芭蕉を一世、支考を二世と数えて、昭和三十三年(一九五八)の合流を経て、今日まで続いている。

美濃派の俳風は、芭蕉晩年の「軽み」の風をさらに平俗にしたもので、軽い教訓性をも含んでいて、一般民衆に大いに迎えられるところであったが、後年、乙由の麦林風(伊勢派)とあわせて支麦の徒、田舎蕉門などとも言われた。

そんな中、岐阜の俳壇に樗良が蕉風復古の中興の風を起こさんがために、冠句を伝えたものと思われる。

京都木屋町三条に無為庵を移し、蕪村、几菫、嵐山との四歌仙興行『此のほとり一夜四歌仙』が有名で蕪村一派とも交流し、京都の門人も増えた。

晩年には、北越方面の旅『菊の香』、北陸では『雪の声』『まだら雁』、在京中は『月の夜』『一日行脚』を刊行した。安永九年春、山田に帰郷してその秋に多彩な生涯を終えた。墓は伊勢山田の寿巌院にある。

没後に『樗良発句集』、『樗良文集』、『樗良七部集』が刊行された。

通称 落葉塚

我が庵榎ばかりの落ち葉かな

この句は宝暦12年山田岡本里に無為庵を結んだときの句。庵の場所は不明だが虎尾山麓ではないかと云われている


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