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岐阜調狂俳雅人伝 第七回「二世小々坊 孫六大人(明治三十二年~昭和五十六年)」

岐阜調狂俳雅人伝 第七回「二世小々坊 孫六大人(明治三十二年~昭和五十六年)」

2022.05.03 595

二世小々坊 孫六大人(明治三十二年~昭和五十六年)

俳歴及び功績

本名 林太郎。十七歳で父三柏軒友山大人の指導を受け、関市内の薫風社に入門。昭和十七年、四十四歳にて立机して小々坊を継承。七十歳にして東海樗流会副会長として活躍した。昭和二十八年に岐阜県知事賞、昭和四十五年に関市文化功労章を授与される。

狂俳歴は七十年にも及び、県下各地どこの大会にも選者として名を列ねぬことはなく、独特な軽妙洒脱にして含蓄がある選句吟声に、本当に狂俳の真髄醍醐味に浸らせ、大会を沸かせたそうである。

当時の八世 八仙斉唖声宗家の追善の詞を以下に紹介します。

「岐阜調狂俳創始二百年祭記念号の中の故人の一節に、“・・・尾張調にて研究するよりは、岐阜調に魅力あり、深みがある。この道に親しむなら岐阜を道場とせよ、と雨の日の開巻には番傘片手に長靴を履いて、重い自転車に乗って岐阜へ走った・・・”。そして孫六大人の名声は、東海樗流会を覆うに至った。然して県下到る所に足跡を残した故人は、軽妙洒脱の中にも一脈筋の通った吟声は、満堂の同人をして陶酔せしめられた。」

七十年の長きにわたり句作や選章に没頭せられるほかに、芸能人としても大活躍し、新聞社主催の東海素人芸能大会には優勝した。また老後は、関市寿大学の学長としても尽力、県下に「にわかの名人染太郎」の名を轟かせた。

また、奥様とも大変仲睦まじく、大会に参加するため家を出たところから、大会の模様、そして帰るところまでを必ず毎回報告され、その様をよく覚えているとは、子息棟夫雅の婦人の言であった。

何よりも敬服に値することに、故人の逝去に際して三十年に及び、月並会に毎回選者として指導を受け、古人に私淑して敬慕措かざる四社、により追善句会が美濃加茂市太田町本町 西福寺において一周忌を期して行われたことである。その数四百雅、集句一万六千句の盛会となり、雨天にもかかわらず二百五十余雅の参会があったそうである。そして遺句集「銘刀の味」も発行された。故人の高徳が偲ばれる。

また、関善光寺の隣にある俳諧の芭蕉の弟子である広瀬惟念の記念館弁慶庵がる。なんとそこに孫六大人の遺品として拍子木が展示されている。個人のその人生が、狂俳人として、如何に地域に根差し活躍し愛されたかを物語る快事と言えよう。


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