ホーム›狂俳日々徒然› 鵜沼社, 狂俳雅人伝 › 岐阜調狂俳雅人伝 第六回「田中山里大人(大正六年~平成二十一年)第九世八仙斎」
本名 田中理一。昭和六十三年に八仙斉を襲統し、平成二十一年まで宗家として活躍。
また東海樗流会長としては、平成元年から平成六年まで重責を担い狂俳界を牽引して活躍した。
山里八仙斉宗家兼東海樗流会長のもとで、曽北社、鵜沼社の達人たちが切磋琢磨し支えた。
長く樗流誌の編集に携わった東海樗流会副会長も務めた東海園西川赤銅大人、同じく副会長を務めた浮世庵加藤安逸大人、樗流誌上で句作の指導を連載した田中愚坊大人、後に事務局長を務めた洗心庵田島岳泉大人方を輩出し、樗流会をリードした全盛期でもあった。
常々後進への指導では「一字が大事である」を強調された。
所属は、曽北社で各務原市前渡西町に住し、機織を家業として、奥様は学校の先生であった。
ご夫妻でお茶を嗜まれ、旅先では、どこに行くのでも茶籠持参でお茶を点てられ、同行の方々にもお茶を振舞われ、一座をなごやかにされ、楽しまれた。
外出の折には、藜(あかざ)の杖を使われており、とても風流で印象深く、好々爺のようであった。
尊大ぶったところがなく、どちらかと言えば控えめであられたが、威厳があった。
お話が上手で耳に残るほどであった。また、下ネタもお得意だった。おたけさんの物語など秀逸であった。
「句を作れ作れ」という指導でなく、「楽しめばよい」、という指導法で、毎回楽しく、ついつい言われるままに楽しんで付いてきてしまったという感じで、狂俳を作るというよりも、人生を楽しませていただいた。
家庭菜園が趣味で、菜花などいただいたものだった。
(鵜沼社、中野邦佳・都築惠華・長瀬睡蓮雅方の談より)
[ 元気 ]
能面抜げば翁なり
[ 先づ上がれ ]
馬がよう合ふ気も揃ふ
[ ネエ貴方 ]
薬缶に紅のマーク押す
[ てくてく ]
ストが帰りの足奪ふ
[ 御機嫌 ]
百点の足音軽い
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