岐阜調狂俳と俳句の研究

東海ちょりゅう

狂俳

“KYOHAI”

令和5年 狂俳発祥250年

To the next 300 years

和歌「敷島の道」連歌「筑波の道」狂俳「稲葉の道」

連歌(真態)俳諧(行態)狂俳(草態)

ホーム狂俳日々徒然 華陽社,  狂俳雅人伝 岐阜調狂俳雅人伝 第一回「澤田唖聲大人(明治37年~平成7年)第八世八仙斎」

岐阜調狂俳雅人伝 第一回「澤田唖聲大人(明治37年~平成7年)第八世八仙斎」

岐阜調狂俳雅人伝 第一回「澤田唖聲大人(明治37年~平成7年)第八世八仙斎」

2022.05.03 943

澤田唖聲大人(明治37年~平成7年)第八世八仙斎

東海樗流会中興の祖と言われる。また狂俳の虫、樗の生き字引と讃えられた。

功績

岐阜調狂俳の創設並びに普及指導に奔走。昔の狂俳は雑俳、笠付などの名残があってややもすると遊び本位に走るきらいがあった。それを文芸本位の内容を盛って、他の短詩文学に劣らぬものに引き上げるため、「先人たちの遺稿」にあるように距離や定座の掟を定着させ、岐阜県下の狂俳結社に指導行脚した。その間に樗流会は、130社1600人の会員を擁する会に成長した。

事業

樗流会の創立を始め、無為庵樗良翁の180年忌大法要を中心となり実施。会長就任後は、昭和47年12月には岐阜公園に狂俳発祥の碑を建立し、昭和50年に岐阜調狂俳創始200年祭を挙行。昭和53年に会員憲章を制定。昭和55年には開祖樗良翁200回忌御遠忌法要を厳修し、記念事業として岐阜公園に樗良翁真筆臨書の碑を建立と次々と画期的な大事業を達成した。

受賞歴

昭和50年岐阜県芸術文化奨励賞、昭和56年岐阜県芸術文化顕彰、昭和63年文部大臣表彰地域文化功労者をそれぞれ狂俳界を代表して受賞。

俳歴及び特徴

華道や能を学び、俳句も嗜む中、早くから狂俳にも関心を示し、大正時代から独習。
昭和24年、狂俳結社華陽社を創始し、翌25年の文芸タイムス主幹高橋素堂雅の呼びかけに呼応して、大人会を組織して樗流会とし、庶務を担当。
昭和29年に獅子門春秋社第2世を襲統立机し、同年には樗流会においても可碌庵を立机。
昭和33年に東海樗流会常任理事に就任し会計を担当。
昭和46年に八仙斎第8世を襲統し、東海樗流会顧問に就任。
昭和48年には東海樗流会第4代会長となり、昭和56年まで務める。

元々美濃の俳諧は、各務支考の獅子門が主流であったため、当然、江戸時代の俳人間の交流過程において、狂俳も相互に影響を受けている。
明治に生まれた新たな文芸である俳句が主流を占める現代において、獅子門は、正式俳諧、連句の伝統を継承護持している全国的にも希少な結社であるが、狂俳も同様に連歌、連句、俳諧の座の文芸を継承している。
不思議な事であるまいか。岐阜において、ガラ携と揶揄されるガラパゴス諸島のように、獅子門、狂俳の二門が、日本の正式な座の文芸の伝統を護持継承しているのである。
唖聲大人は、獅子門、狂俳に通じた稀有な存在であり、その後の狂俳の指導や発展に大きな影響を与えたものと思われる。

人柄・エピソード

温厚にしてどちらかというと寡黙、自宅で行われた芭蕉忌の法要が懐かしいと、華陽社で長年、ご夫妻に指導を受け懇意だった桃花大人の談。「良き人に佳き作品」と言われるように作品だけではなく、むしろ作者の人格向上を特に重視した。平素の態度も温和の中にもとても厳しいものがあった。現八仙斎泉水宗家宅には、師父初代翠松庵泉水大人と交流が深く、よく松茸狩りに来ては遅くまで盃を交わし楽しまれたとのこと。


挨拶

狂俳とは

組織

文芸活動

文化活動

機関誌・報道

その他

狂俳結社紹介 岐阜地区

西濃地区

東濃地区

中濃地区

郡上地区

飛騨地区