ホーム›狂俳日々徒然› 歴史, 狂俳とは, 狂俳の作り方 › 狂俳 連珠十五章
1. 狂俳は、俳句から派生、生まれたものではない。
2. 狂俳は、「連歌」→「俳諧」→「狂俳」と「座の文芸・文化」を継承するもの。
3. 「連歌」百韻(句)=「真」→「俳諧」三十六韻(句)=「行」→「狂俳」十二韻(句)=「草」、真・行・草の文化の三態。
4. 「俳句」は、明治30年前後に正岡子規が西洋思想に影響されて作った「個(人)の文芸」。
5. 「連句」もその弟子、高浜虚子が作ったもの。態々、「現代連句」という。
6. 芭蕉は「俳句」や「連句」を作っていない、「俳諧」を作った。
7. 「俳諧」は元々、「連歌」の一ジャンルであったが、江戸期に芭蕉が確立し独立した。
8. 「連歌」は、百韻(百句) 鎌倉・室町時代に生まれた。武士の文化であり、座の文化[主と客の応酬(答)]である。岐阜は連歌の確立者(揖斐川町小島・小島頓宮・二条良基「小島のすさみ」鎌倉後期)や完成者(郡上大和町・古今伝授の里・宗祇・室町期)ゆかりの地。
9. 「俳諧」は、江戸時代芭蕉が三十六韻[三十六歌仙](三十六句)に改革し普及した。これが芭蕉の最大の功績。
10. 現在誤って、「芭蕉が作った俳句」と表現されるものは、「俳諧の発句」であり、あくまで「発句(長句五七五)・脇句(短句七七)・第三句(長句)・第四句(短句)・・・と三十六句続く」三十六歌仙の俳諧中における最初の長句のことである。
11. 岐阜は、芭蕉の晩年の弟子各務支考が活躍した地で、「獅子門」は、俳諧を全国で唯一、今に伝える団体。
12. 「狂俳」は、十二韻(十二句、見返し・大尾と十句)、二十内、三十内、、、、百内(百韻)、と連歌の形態に連なる。
13. 句作り諸規則や天地・折句・一字詠込は、俳諧・連歌・和歌に由来する。当然のこととして、俳句からではない。
14. 狂俳は、岐阜県の誇るべき自然や文化文芸の歴史が紡いだ「座の文化の究極の形」=「草態」であり、五・七か七・五の十二音の世界一短い短詩文芸である。
15. 狂俳は、神社仏閣への「奉納額」や「奉燈祭・行燈祭り」として、老若男女に親しまれ生活に浸透した岐阜県にのみ伝わる文芸であり、文芸が庶民の習俗や民俗文化と化した点において、世界でも例を見ない類まれな文芸である。
(愛知県・関西の一部・南九州にもあるが、座を継承するものは岐阜県のみ)
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