ホーム›狂俳日々徒然› 華陽社, 行灯祭り, 文化活動 › 行灯まつり 岐南町八剱 河野専光寺行灯まつり
岐南町八剱にある河野専光寺は、岐南町史跡の標柱がある歴史のゆかり深い地にあるお寺です。南北朝内乱の時代には、信濃の武将である村上彦四郎義光は、後醍醐天皇の皇子・護良親王が吉野に逃れ落ち延びる際には、親王の鎧を身に纏って身代わりとなった伝説の忠勤の武将で、妻岩根をこの地に預けました。また、足利時代には、足利尊氏に仕えた仙石次郎左衛門が居城した印食城跡でもあります。
毎年八月二十三日前後に実施する地蔵盆の折に八剱地区六つの自治会が、地元岐南町北小学校の児童の協力を得て行われています。まず、地蔵尊にお参りして、それから盆踊りが境内で賑やかに行われ、山門や地蔵尊あたりには露店も立ち並び賑やかな夏の恒例行事となっています。
顧問には、25歳で結婚して青年団を退団以来ずーと世話人として、行灯の修理から作成まで面倒を見てこられた地元大工である柳瀬隆雄さん御年九十云歳が今日まで続けてやってこられました。
この地区は、県道77号線を挟んで岐阜市華陽地区と隣接しており、狂俳が盛んであった。かつては岐南町では今日楽社、八剱社、道を挟んだ隣の厚見地区華陽社など吟社がいくつもあった。
八剱社や今日楽社の中心メンバーであった春月庵松原花恵大人が地蔵盆に協力しながら狂俳行灯まつりを飾り実施していた。花恵大人亡き後は、その遺志を娘さんである翠涼庵馬淵清女雅が受け継いで現在まで取り組んでいる。一時、もう終わりにしようかと悩んだ時期もあったそうだが、地元の強い要請を受けて現在まで続いている。
書と絵は、以前は、旧武儀郡洞戸村瓢南社の林巴城雅に協力を得ていたが、現在は、東海樗流会長である八仙斉晴月宗家が受け継いで協力し、見事な書と絵を行灯に披露し、岐南町八剱の地蔵祭りの風物詩となっている。
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