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メディアコスモス狂俳顕彰行灯まつり講演録 『「狂俳」最短最小の定型詩』梶田 叡一 桃山学院教育大学長 元兵庫教育大学長・前中央教育審議会副会長

2022.05.03 1,195

「狂俳」とは何か

「狂俳」をこれまでに見たり聞いたりした人は、そう多くないであろう。「題」に対して「五・七」か「七・五」で句を作る、というものである。俳句が「5・7・5」で最も短く小さな定型詩と呼ばれることがあるが、それよりもっと短く小さな定型詩である。明示的あるいは暗黙の約束事もきちんとあって、例えば、

・題を句の中に直接的な形で読み込んではいけない、
・体言止めでなく動詞で句を終える、
・文語体でなく口語体で、
・単なる説明にならないよう工夫して

等ということになっている。

こうした狂俳は、今から二五〇年程前の安永二年、江戸時代中期の俳人・三浦樗良(ちょら)が岐阜に滞在し、後の狂俳第一世・細味庵(桑原藤蔵)に指導したのが始まり、と伝えられている。現在は、細味庵と八仙斎の二宗家が重きをなし、岐阜県を中心に約五十の結社によってその伝統が伝えられている、という。

岐阜市立岐阜中央中学校は二〇一六年十一月と十二月に第十一世八仙斎加藤宗家と岩田理事を講師に招いて勉強会を始め、二〇一七年二月には岐阜小学校校区の有志30名余による「狂俳岐阜中社(なかしゃ)」が発足して作句活動を始めるなど、ごく最近になっての活動再興が顕著である。学校で組織的に取り組み始めたところも、岐阜市立岐阜中央中学校のほかに、藍川東中学校、岐阜小学校、藍川小学校、芥見小学校、厚見小学校などと広がっているという。

こうした中で、二〇一九年十二月二十一日と二十二日、岐阜市立中央図書館が入っているメディアコスモスを会場に「狂俳顕彰行灯まつり」が開かれた。私も記念講演の講師として招かれ、両宗家のご当主や岐阜中社会長(この行事の実行委員長)ら関係の方々と懇談する機会を持つことができた。この会で一般の部と小中学生の部の優秀作の発表も行われたが、私の印象に残ったのは、例えば次のようなものである。なお、カッコ内は題である。

一般の部では、

[ 朧 夜 ]
墨絵ぼかしの 金華浮く

井藤 恵月

小中学生の部では、

[ なかよし ]
こころをこめて 話聞く

小二 後藤 ひなた

[ 花火 ]
願いと希望 空に舞う

小六 吉眞 さくら

会場には百五十基の行灯が並べられ、一つの行灯に二句、三百句が掲げられていた。以下のものなど幾つかの作品が私の目に強く焼き付いている。

[ お正月 ]
お年玉 妻にも渡す

[ 恋 ]
地平線に 愛叫ぶ

[ お客 ]
玄関に しつけがそろう

「縮み」の文化、「凝縮」の文化の問題

万葉集には柿本人麻呂のものなど優れた長歌がいくつか収められている。長歌とは「五・七・五・七・五・七…」と続け、最期を「七・七」で結ぶ和歌の形式である。こうした長歌には、最後に反歌として、「五・七・七」の短歌が添えられることが多い。この反歌の部分が現在では独立して、和歌と言えば短歌の事を指すことも少なくない。また、鎌倉、室町時代に大成された連歌は、まず「五・七・五」の発句に始まり、続けて「七・五」を二人以上の掛け合いの形で連ねていき、最後を「7・7」で締める形式であるが、この発句「五・七・五」の部分が独立したものが俳句である。こうした短歌や俳句の出現と不況の流れの中で、更なる短縮化による凝縮が図られた表現形式が「狂俳」と言っていいであろう。

ここで思い起こすのが、かつて韓国の初代文化部長官を務めた文学者・李御寧(イ・オリョン)が主張し、日本でも大きな反響を呼んだ「日本文化の本質は“縮み”志向にある」という見方である(『「縮み」志向の日本人』学生社 一九八二年/現在は講談社学術文庫に)。

実は、彼の本が日本で出版され、論日を巻き起こす何年も前、一九七六年か一九七七年に、私は彼のソウルの自宅に招かれ、夕食を共にしながら日本人の「縮み」志向という彼の論について議論を交わしたことがある。彼はその時は梨花女子大学の仏文学の教授で、文芸評論家として活躍しており、まだ文化部長官に就任する前のことであった。

この語らいの折に彼の出してきた例が、日本人の盆栽好きと俳句好きであったことを懐かしく思い出す。この折の彼は、必ずしも日本人のこうした嗜好に対して好意的ではなかった。なぜ素晴らしい大自然をそのまま楽しむということをしないで、盆栽といった形で狭い盤上に大自然を凝縮、再現してみようとするのか、という批判的な見方である。また、俳句といった短縮した詩型ばかりを偏愛するから日本人は雄大な叙事詩を持たない民族になるのだ、という意見も痛烈であった。私の方からは、日本人は盆栽好きであると同時に実物の雄大な富士山とその周辺の風景をそのままの形で楽しんできたこと、俳句という本質的凝視的な詩的表現を好むと同時に、古くから散文の形で古事記を、源氏物語を、平家物語を好み、語り伝えてきたこと、などを挙げて反論した覚えがある。

いずれにせよ、狂俳は日本的な志向性の一つの行き着いた形であるといってよい。同様な志向を示すものとして、明治の終わりから大正、昭和初期にかけて出現した自由律俳句のことも思い起こされる。「五・七・五」の枠を取っ払った俳句である。

例えば、尾崎放哉の

咳をしても一人

こんなよい月を一人で見て寝る

種田山頭火の

分け入っても分け入っても 青い山

おちついて死ねそうな草萌ゆる

といった句である。

事象を凝縮した形で表現して、本当に大事なところを絞って深く味わう、という根本的な美意識が、短歌を生み、俳句を生み、狂俳を生み、自由律詩を生んできたのではないだろうか。そこにあるのは単なる「縮み」でなく、二義的なものを切り捨て本質的な一点へと焦点を絞っていく、という本質凝視の営みである。日本の伝文化のあり方を、こうした視点から更に吟味し、深く深く味わっていく必要があるのではないだろうか。

【参考文献】
梶田叡一 『和魂ルネッサンス―日本の感性』あすなろ出版 二〇〇九年


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