ホーム›狂俳日々徒然› 岐阜中社, 狂俳雅人伝 › 岐阜調狂俳雅人伝 第二回「川出禾秀大人(明治二十年~昭和十八年)第六世細味庵宗家」
岐阜樗流会結成前、戦前の昭和八年に細味庵宗家を襲統。岐阜市今町に住した。
この今町は、斎藤道三の井の口のまちづくりの後、信長の時代に造られた町で、川原町から物資を輸送する本道であり、旧ぎふまちでも伝統を誇り栄えた商人の町である。
また、この今町こそ、初代八仙斉亀遊が住んだ町であり、かつての狂俳のメッカの町とも言える。
当時下駄問屋を経営して羽振りもよかったようである。細江岐阜市長の祖父は、この大店の番頭として活躍したとのこと。
狂俳も創設期から二・三代までは、はっきりしているが、その後、明治・大正・昭和となるとあまり史実が詳らかではない。それは、岐阜空襲により岐阜市中心地は焼け野原となったため、離散したり、焼失したりしたからである。
しかしながら、この六世細味庵禾秀宗家は、ご子孫が同じ町に住み、現在まで三代医師の家となって続いている。現在医院の建物も三代目で瀟洒な現代的な佇まいである。
本宅の門の脇には、六世細味庵宗家の辞世の句「雀二三羽何語るや暖かし」の石碑があり、景色になっている。
大仏正法寺の運授堂のお稲荷さんの天井画は、華舟という画号で干支や仏教画が二十四枚奉納されている。その他にも川出家には、五世細味庵眉秀宗家との合作や珍しいところでは、美濃派以哉派二十九世 山田三秋、反古庵三秋師の句との合作もある。俳人としても画家としても有名であった証左である。
因みに華舟という画号は、先代五世細味庵眉秀が一世を名乗り、その画号も受け継ぎ二世華舟と名乗っている。五世細味庵眉舟も近所の金華地区、常盤町に住しており、金華山の山麓の人、華に舟で、華舟と名乗ったのは、地元住民として理解ができる気がする。 また川出医院初代の善之助氏は日展理事長の加藤栄三先生の愛弟子で医院の待合室にもその作品が常設展示してある。
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