ホーム›狂俳日々徒然› 奉納額, TV放映・新聞掲載等, 藍水社 › 岐阜市芥見 広報誌 R3.10「狂俳 藍水社」 亀山麗花
藍水社(らんすいしゃ)は、8月13日~17日に岐阜メディアコスモスで開催された「狂俳顕彰行灯まつり」に参加しました。
岐阜市で生まれた狂俳という優れた文芸を再確認し、広く普及させ後世に由来を伝えるため、例年は各種行事が行われるのですが、今年はコロナ禍により行灯展示のみとなりました。
普段は16名の会員が、毎月第2土曜日に芥見公民館で狂俳を楽しんでいます。また、毎月第1、第2水曜日は岐阜新聞に作品が掲載されます。芥見公民館で行われる文化祭では自慢の作品を展示します。
11月26日は藍川東中学校で狂俳教室を行います。
代表の麗花(亀山喜美子)さんは、これからも藍水社の伝統を継承し、多くの人が狂俳に興味を持ってくださるよう、活動を広めて行きたいと話していました。
八幡神社は明治32年(1899)9月20と記載された狂俳奉納額を所蔵し、左から副評として「春陽舎梅月」選定の句、右側に「一峯斎雲月」が選定した48句が並んでいます。重要文化財に該当するか否か、現在鑑定中です。
眞聖寺には昭和61年藍水社が寄進した狂俳奉納額が掲げてあります。
狂俳とは、和歌、連歌、俳諧と続く日本固有の短詩文芸から派生したひとつで、世界で最も短い詩と言われ、庶民の文芸として広く親しまれています。形がきわめて簡単で、与えられた「題」+「十二音(五+七あるいは七+五)」で表現される世界で一番短い文芸です。俳諧が主として文語体であるのに対し、狂俳はほとんどが口語体で、方言や俗語も多く使われ地域に密着しています。ただ狂俳にも約束事があり、たとえば与えられた題の字は句の中に読まないとか、動詞で終わり名詞で止めないなどの決まりがあります。このように大人から子供まで、誰でも気軽に楽しめる文芸です。
江戸中期の俳諧人、志摩国生まれの三浦樗良(ちょら)が狂俳をはじめたとされ、当初は「冠句」と呼ばれました。樗良は安永2年(1772)に岐阜に滞在し、その折に美江寺の俳諧人、初代細味庵蘇坡に冠句の指導をしました。その後、初代は二世細味庵、弟子八仙斎一世とともに俳諧の形態に準じ作法や様式を整え、これを岐阜調として狂俳の普及に努めました。狂俳の活動は細味庵と八仙斎の二宗家によって東海地方を中心に展開され、江戸後期、明治後期~大正期、第二次世界大戦後など特に隆盛しました。岐阜県下の結社を組織した樗流(ちょりゅう)会が昭和25年(1950)に発足し、同33年(1958)に東海樗流会と改称、狂俳の宗匠であった初代八仙斎亀遊が岐阜公園の一画に草庵を構えていたことから、同47年(1972)に狂俳発祥の地の句碑が岐阜公園内に建立されました。東海樗流会は岐阜県を中心に最盛期は2,000名の会員を数え、現在は30結社約300名でその伝統を守り続けています。
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